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水郷田名の烏山用水について

 投稿者:MWA No.561  投稿日:2012年 8月 8日(水)15時50分16秒
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  6月30日(土)例会No.441「あじさい、水郷、古寺(500選)」で歩いた烏山用水関連に就いて調べました。

1. 烏山用水の成り立ち

       相模原市田名は江戸時代後期の田名村です。戸数は569戸(「新編武蔵風土記稿」)、11の集落からなる
       比較的大きな村でした。
       享保13年(1728)、厚木村と同じく一村全体が烏山藩大久保氏の所領となり、相模国の烏山藩領では
       厚木村に次ぐ1,650石余りの石高がありました。集落の多くは相模川が形成した河岸段丘(台地)上にあります。
       台地の下は相模川の氾濫原である低地が広がり、相模川沿いの自然堤防には滝(たき)と久所(ぐぞ)の二集落が
       営まれていました。
       相模川の渡河点である久所は、江戸時代以降盛んになった大山参詣の宿場でした。集落東側の低地一帯は現在、住宅地となっ
  ていますが、以前は相模川の水を引いた水田が広がり、水郷の景観を呈していました。
  集落の北側にある鎮守田名八幡宮西側を、地元では新堀と呼ぶ用水が流れています。
  久所の水田を潤した用水ですが、この用水際に「烏山用水」の標杭がたっています。この名は烏山藩が行った新田開発に
  由来しています。
  明治・大正期の用水改修工事竣工を記念して建てられた「疎水工事記念碑」(八幡宮境内)裏面には、冒頭に次のような碑文が
  あります
  「高座郡田名村疎水工事ノ沿革ヲ按ズルニ安政五年領主烏山ノ城主大久保佐渡守殿相模川字山王崖ヨリ隧道
  三百間ヲ鑿チ水ヲ引キ以テ新田ヲ耕サシメタリ」。
  烏山藩は、特に凶作による飢饉が発生した天保期に本領の下野領が荒廃し、天保7年(1836)には借財が三万四千両余になる
  ほど藩財政は悪化していた(『相模原市史』第2巻)。田名村の相模川低地一帯の開発は年貢増収による財政再建を目指したと
  思われます。
  開田工事は安政5年(1858)に着手されました。滝集落にある宗祐寺西側の産能坂の崖下からトンネルを掘って集落内に
  出口を設け、ここから南へは掘割を開鑿して導水しました。また、高田橋の少し上流の地点からは旧来の堤防につなげて
  新しい堤防を築いていったといいます。工事が完成したとされる翌安政6年(1859)に「御普請所諸入用惣〆帳」が作成されて
  います。
  これによると、総費用は金四百七十八両二分八百七文。主な資材としては、杭などに使う雑木が4,294本、縄960房、築堤用の
  蛇籠は1,971.5間(延べ3,500m余)にもなりなした。工事に携わった人足の数は記載されていないが、総額の7割を超える
  三百五十両余が手間代として書きあげられています(『相模原市史』第2巻)。
  工事道具を見ますと、ツルハシ14丁やジョレンなどの掘削具、運搬具はテンビンやモッコ程度のものです。相当の困難を伴った
  大工事であったと思われ、また、従事した人足の多くは村人であったと思われます。ところが、先の碑文はこう続けています。
  「然ルニ万延元年洪水ノ害ヲ蒙リ平田埋没シ水路杜絶セリ」。
  工事が完成した翌年の万延元年(1860)、大水によって堤防は決壊、村人の労苦の末にできた新田は、いくばくの実りも見ること
  なく濁流によって流出してしまいました。決壊したのは新旧堤防のつなぎ目あたりであったといいます。『相模原市史』第2巻は、
  「全く年貢増徴のみを考えて、新田の開発が広過ぎ、それを守るための堤防が水勢水圧を考慮せず」と、烏山藩の工事
  監督者の責任を断じています。
  その後、烏山用水は地元農民の努力等があり、低地の水田を潤す用水となりました。

2.烏山藩相模国の領地

  烏山藩は、下野国那須郡烏山(現栃木県烏山町)に藩主の居城を置く譜代小藩です。居城は烏山城・臥牛城といわれ、
  城跡は烏山町城山にあります。
  この烏山藩の領地が相模国に拝領したのは享保13年(1728)。時の藩主大久保常春が幕府老中に就任し、役料として
  一万石が加増されたからでした。一万石を加増され、総石高三万石となった烏山藩大久保氏は明治維新まで続きますが、
  飛地として加増された相模国一万石の村々を支配するため、厚木村に代官役所として厚木陣屋を置きました。
  厚木村天王町(現厚木市厚木町)厚木神社北側の相模川沿いにあった厚木陣屋は厚木役所ともいわれ、その跡地は
  市指定史跡となって記念碑がたてられています。
  近世烏山藩の歴史は、天正19年(1591)、武蔵国忍(おし)城主であった成田氏長が、豊臣秀吉から3万7千石を
  与えられて入部したのに始まります。忍城(現埼玉県行田市)の成田氏は、戦国時代小田原北条に属していました。
  天正18年(1590)、忍城は石田三成によって攻められ開城します。

  忍城は、本や映画になった「のぼうの城」に出てくる城主成田氏長の甥、成田長親が石田三成と戦った所です。
  長親は、表情の乏しい背の高い大男で、のそのそ歩くので「でくのぼう」を略して「のぼう様」と呼ばれ領民から慕われていました。
  城主氏長が小田原城に籠城中に三成が攻めて来た為、長親が城代となり三成勢2万3千と成田勢3千との戦いになり、長親は
  城を落とされず開城しました。この時の石田三成が豊臣秀吉をまねた水責めの失敗談は有名です。

  元和9年(1623)、烏山藩成田家は、家督争いが原因で改易、寛永元年(1624)には松下重綱が常陸国小張(茨城県伊奈村)
  から2万8千石で入部しました。
  松下重綱は、寛永4年(1627)までわずか4年の在封で、陸奥国二本松(福島県二本松市)へ移封となりました。
  松下重綱が移封となった後、藩主は堀氏から板倉氏へと変わりますが、寛文12年(1672)5万石で入封した板倉重矩
  (しげのり)は、京都所司代や老中を務めた幕府の重臣でした。これ以降、烏山藩は譜代大名領有の地となって、那須氏・永井氏・
  稲葉氏を経て、大久保氏へと引き継がれることになるのです。(『藩史大辞典』)。
  以下、烏山藩大久保氏歴代藩主を『寛政重修諸家譜』『下野国烏山藩相模国所領』によって紹介しておきます。

  大久保常春(初代藩主 従五位下山城守) 延宝3年(1675)、大久保忠高の二男として生まれました。
  元禄12年(1699)忠高の領地近江国1万石を襲封、正徳3年(1713)には若年寄となった。享保元年(1716)、徳川吉宗が
  八代将軍となると、大久保常春に命じて鷹狩を復活、この時の鷹匠頭は、厚木市林福伝寺に茶湯料を寄進した戸田勝房が
  勤めた。
  享保3年(1718)、常春は近江国で5千石を、同10年(1725)にはさらに5千石が加増されて、領地を下野国に移され、
  2万石の大名として烏山城を拝領しました。さらに享保13年(1728)5月には、老中に任じられて1万石が加増され、
  飛地として烏山藩相模国領が成立しました。しかし、病に犯された常春は、老中在任期間わずか120日にして、
  享保13年(1728)9月9日行年54歳で亡くなりました。

  大久保忠順(最後の藩主 従五位下佐渡守) 元治元年(1864)8歳で襲封。廃藩置県にともない烏山県知事となる。大正3年
  (1914)58歳で亡くなりました。

3.烏山藩厚木陣屋について

  厚木陣屋(厚木市指定史跡)は、享保14年(1729)頃に厚木村天王社(現厚木神社)の北側に設置されたとみられています。
  陣屋には藩から代官が派遣され常駐し、年貢の取立てなど領内支配の役目をしました。
  厚木村は相模国の中央に位置し、東に相模川が接し、村内を矢倉沢往還が通るなど輸送手段としての水上・陸上交通が発達し、
  物資集散地として経済活動が盛んであり、有力商人が多数いました。
  厚木陣屋についての詳細不明ですが、「相中留恩記略」(天保、安政年間に鎌倉郡渡内村(藤沢市)の名主福原高峰が編集した
  地誌)に描かれた厚木村図に厚木陣屋が見えます。
  陣屋は相模川河畔にあり、塀で囲まれた中に数棟の建物が見られ、船が一艘つけられようとしています。明治初年の地租改正図
  によると、敷地は南北約14間(25メートル)、東西約27間(49メートル)で、約1,200平方メートルです。
  明治4年(1871)の廃藩置県により旧烏山藩領は烏山県に属し、厚木陣屋は烏山県出張役場となり、次に足柄県管下となり、
  その役目を終えることになりました。
  烏山藩領は、初代烏山藩主大久保常春の時、相模国の鎌倉郡・高座郡・大住郡・愛甲郡の四郡において1万石が加えら
 れました。(『寛政重修諸家譜』)。鎌倉郡9ケ村、高座郡13ケ村、大住郡7ケ村、愛甲郡10ケ村の合計39ケ村であり、
 このうち鎌倉郡での異動があったが、他の三郡の村々はそのまま明治維新まで続きました。
 また、当初の拝領の村々は全て幕府直轄の地であった(『下野国烏山藩相模国所領』厚木市史史料調査報告書)。
 愛甲郡10ケ村のうち、現在の厚木市域に該当する村は、安永3年(1774)の調べによると厚木村、上荻野村、林村、川入村、
 温水村、飯山村、上・下岡田村の8ケ村で、石高は合計で凡そ5,600石ほどを数えます(『下野国烏山藩相模国所領』)。

 さて、烏山藩は領内の支配を強固にするため、享保13年(1728)9月に『郷中御条目』として、92カ条に及ぶ様々な法令を発して
 います。例えば、「農耕に精出し年貢皆済に心がけよ」「耕作不精の共同責任」「耕作不精の取締り」「田畑に竹木を植え日影に
 するな」など詳細な規制を指示しています(『下野国烏山藩相模国所領』)。
 ところで、領主側からのこうした厳しい支配に対して、民衆の側はどのように受け止めていたのでしょうか。
 天保2年(1832)9月、三河国(愛知県)田原藩の家老渡辺崋山は、厚木村を訪れました。
 旅の様子を記した『遊相日記』によれば、崋山はこの時、烏山藩政についての見聞を得ています。厚木村の冒頭
 「○政事甚苛刻、人情皆怨怒ヲフクム(中略)又、
ヨウキンヲ令シ、民ノ膏腴ヲ奪ヒ一挙ニ千両ヲ出スモ唯厚木ノミ、亦其ノ
 盛ヲ可知也」
と記し、烏山藩政が苛刻であるとしている。
 酒井村の侠客駿河屋彦八、医師の唐沢蘭斎もともに藩政に対する激しい批判を行っています。崋山は「余愕然ト驚キ」と述べてい
 ます。しかし、こうした藩政批判が公然と行われ得たのは豊かな経済力によるものであり、そこにはまもなく訪れる封建制社会の
 崩壊が感じ取れるようであります。
 
 
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